邦画のみそ汁が何とやらって、ちょいと昔の話題を出しますが。
まぁ、今の日本の実写映画とアニメってどちらも制約が多い業界だと思う。
実写は主に制作側の制約、で、アニメはどっちかというと観る側の制約が多い。
どっちも作るのに大変ってのは共通してんだが、ただ一つ、すごい違いがある。
アニメには、ファンがいるんだよね。
対して、今の実写映画はどうだろうか?
映画好きでも、邦画を好きって人はどれぐらいいるだろうか。
邦画好きでも、昔の映画――黒澤や小津がいた時代ではなく、角川映画全盛期でもなく、今――今の邦画を好きな人はどれぐらいいるだろうか?
言ってしまえば、アニメと実写映画は共に制約が多いけれど、ファンがいるって違いが大きいんだよね。
だからってこともあったんだろうけど……
ついに、それを解決するような映画が登場した。
www.iamahero-movie.com
原作、600万部を突破した大ヒット漫画。
漫画の実写化いうと、泣く子も黙るというか、一部の人にはトラウマになってるかもしれないが。
だが、今作は違う。
主人公・鈴木英雄を演じるのは、大泉洋。
確かに35歳でうだつの上がらない漫画家アシスタントにはピッタリともいえるが、しかし、コメディ色の強い役者――ぞくぞくと、これまでの邦画を見てきた人に戦慄走らせる不安があるかもしれない。
しかし、安心してほしい。大泉洋はそんな振り幅が狭い役者じゃないのだ。
(この人、舞台で明智光秀とか土方歳三などもカッコよくこなしてるからね)
スクリーンに出る鈴木英雄は、まさしく鈴木英雄。
顔はよーく見れば大泉洋に似てるが、存在感は希薄、オーラはない。とてもじゃないが、水曜どうでしょうどころじゃない。出てくる言葉もハキハキとせず、とてもじゃないが。600万部も突破した漫画の主人公にも見えない。
だが、主人公は間違いなくこいつだ。
35歳、漫画家アシスタント。
過去に新人賞を受賞し連載を持ったこともあるがすぐに打ち切られ、ネームを出してはボツ、ボツのくりかえし。仕事場は作家と女性アシが不倫してるし、それを執念にのぞいてるアシリーダーはいるし、家に帰ったらまたネームをボツにされたことで、恋人のてっこに趣味の猟銃ごと追い出される始末。
たまたま居着いた公園では何故かプルプル震えるホームレスがいて、その隣で同期の連載漫画を見て「おもしれぇ……」とつぶやく。それに対して、自分は何だと。いたって普通……何も才能がない、駄目な普通じゃないかと……嘆く。
一夜明けても家に帰らず、仕方なくそのまま仕事場に向かう。何故か風邪が流行していて、テレビでは異常犯罪も目立つ。しかし、それよりも英雄はてっこからの電話に集中する。ベランダに出ると軍用ヘリがどこかに飛び立っていったが――いや、それよりもてっこだ。てっこは「ごめんなさい……」と妙にしおらしい。追い出す前に『私、もう、35だよ?』といったのが生々しく思い出されそうだ。
英雄は栄養ドリンクなどを買って家にもどるのだが……何度ノックしても返事がない。おーい、まだ怒ってるのぉ?と声をかけるも応答がなく、仕方なく、郵便受けのわずかな隙間から……中をのぞいた。
本作で印象的だったのは、日常と非日常の境界線だ。
最初はうだつの上がらない、鈴木英雄の日常が続いて、(ダメダメだなぁ……)と思いながらも、どこか英雄に共感しつつ進む。それは確固たるリアリティを持ったフィクションだ。しかし、リアリティのあるフィクションは同時に我々の日々体験する現実の日常と同化し、違いが分からなくなる――だが、それ以降は途端に日常が崩れる。
そう、本作では日常と非日常の境界線は限りなく薄い。
郵便受けからのぞいた光景は、ようはゾンビになった恋人なんだが。
ともかく、何だ何だと戦いの末、恋人だったのを殺してしまった英雄。
動揺しながらも彼は外に出る。外は平凡な日常が続いていて、おばちゃんが自転車で通り、住宅街も静か。
だが、歩道橋を渡ると腕から血を流した女性。
見上げると、大量の航空機が――逃げるように飛び立っていった。
ふと仕事場に行ってみると、いつもの光景――アシスタントリーダーの後ろ姿が見えるが、「やあ」と振り返ると右手にバット。背後に死体。胸は返り血で染まって、驚くヒマもなく先生だったはずの死体が襲いかかる。アシスタントリーダーは恨み辛みを晴らしながらバットで殺し、不倫していた女性アシもゾンビになってて、というかアシスタントリーダーも実はゾンビに噛まれてゾンビになってしまっていて――
慌てて外に出る英雄。
走る、走る――よかった、まだ外は静かで、日常が続いている。遠くに見える道では子供達が遊んでいるように見える――が、実はフォーカスが合うと大人達が逃げていた。
急に走る影。倒れる悲鳴。それをスマフォで撮影。
何だ、何だと徐々に崩れ始める。だが、住宅地はそう簡単に壊れない。悲鳴を上げるっていう動作にも移行せずに人が突如落ちてきたり、喰われたり、車に轢かれて、徐々にアポカリプトになっていく――。
ゾンビ映画で重要なのは、ゾンビ――ではなく、日常が破綻する流れだ。
原作者・花沢健吾は海外ホラーの『28日後...』の影響を受けたと言っていたが。
あれも、ゾンビが氾濫する世界に至るまでのプロセスが良かった。
あの流れがあったからこそ、誰もいないロンドン。
ゾンビが疾走する姿にリアリティが生まれ、阿鼻叫喚の世界が真になるのだ。
そう、映画とはありもしない非日常にリアリティを持たせ、観客に圧倒的な現実として体感させる――
評論家の岡田斗司夫さんが、『シン・ゴジラ』の予告に不満をつぶやいていた。
理由は、ただ逃げ惑う人々――という描写はもう古い。
『クローバフィールド』を見た人々はもう、怪獣が現れたとしてもすぐに悲鳴を上げて逃げ惑うのではなく、静止して写メ撮ったり、「え、……何?」と顔を見合わせて判断が遅れる、というの見せられてるため、もうただ逃げ惑う景色というのにリアリティがなくなったと言っていたのだ。
しかし、今作はどうだろうか。
『アイアムアヒーロー』。
ゾンビが出てもすぐに悲鳴を上げず「は? は、え?」と動揺し、何故か写メ撮ったり、悲鳴よりも先に怒声挙げたりする映像を見せつけてくれた。
実際に、こんな光景になるだろうという説得力・リアリティがあった。
また、先にゾンビが出て困るのは車だ。何だかんだで車社会の日本。ゾンビになると車が横転し、人を平気で轢き殺す。放置してるとその死体もゾンビに喰われ、これがまた鼠式よりも大量にゾンビを生み出す。
もう、この時点で百億点。それ以降も、徹底的なグロ描写。アクションの良さも目立つが――これがあるだけで、ゾンビ映画ってのは違ってくる。
一応、主人公・英雄は猟銃を持っていて、武器となるものは持っている。
これはかなりの利点だ。
『バイオハザード』でいきなりライフルがあれば、大分違ってくるだろ。
しかし、英雄は撃たない。
というか……撃てないんだ。
ここがまたリアルだよね。アメリカと違って日本は銃社会ではない。普段から法律で厳しくされ、銃を撃つっていうのも咄嗟に浮かんでこないし。何より、いくらゾンビでも、躊躇してしまう。
これが、最後まで徹底して貫かれるんだが――観客である俺は、それによる弱さは感じられなかった。むしろ、強さだと感じた。
俺が子供の頃に好きな映画で、まぁドラえもんなんだが。『鉄人兵団』ってのがある。
これって、妙にゾンビ映画に通じるものがあるんだよね。
大量の敵と戦うってのもそうだけど。
誰もいないスーパーで、食材をもらって調理するのはどことなくロメロ監督の、ショッピングモールに逃げた人々を思い出す。(もしくは『ドーンオブザデッド』)
だが、個人的に強く印象的だったのは、ドラえもん達の行動じゃなく、いつもは冴えないのび太が選んだ行動だ。
突如謎のヒロインとされていた少女が敵だったことが分かり、のび太は撃つ選択を迫られるのだが――撃てないのだ。
「いくじなし!」とそのヒロインから責められるんだけど。(いや、お前が言うなよと)思うとこはあるんだけど。しかし、俺はこれを見たとき、平然と友達と思っていた者を撃つよりも、こっちの方がカッコイイと思ったね。
でも、考えてみるとこれって普通のことなんだよ。
親しかった者が敵だと分かっても、すぐに撃つなんてできるはずがない。
優しさ、いや、それは甘さと言われるかもしれない。
でも、本来あるべき日常ってこれなんじゃないか。
誰かに優しくする、親切するが当たり前であり、ほぼ義務化された日本。だから息苦しいときもあるけれど、本来ならそれは誇るべきことであって、非難されることじゃ絶対にない。ときおり、それが遠回りになったり、仇となることもあるけどさ。
でも、優しさ自体はどんなときも守らなきゃいけない――大事な一線なんだよ。
だが、ゾンビもの――アポロカリプスものって、社会が崩壊してるから簡単にその一線が崩れるんだよね。
『アイアムはヒーロー』でも、役人のお偉いさんみたいな人が女子高生を押しのけて我先にタクシーに乗る奴がいたり、英雄が逃げ延びた先のアウトレットモールで「私が法律です」という奴がいたり、英雄の猟銃を奪って平気で引き金を引く輩がいたけどさ。
でも、英雄は最後の最後まで、その一線を守ろうとするんだ。
ときにそれで、涙を見ることもあるけれど。最後までこれまで当たり前だとされたもの――今はもうないものを胸に、優しくする、人であろうとする人間性。それこそが、銃を撃って敵を倒すことなんかよりも、何よりも大事な英雄の証なんだよね。
それに比べて、英雄の銃を奪った奴らの浅はかさ。
奪ったはいいものの、銃は全然当たらず、それどころか仲間内で醜い殺し合いまでする始末。
優しさを忘れ、本能のままに暴力を振るい、女性を犯し、恐怖で支配する奴は例え生きていてもゾンビと同じ。いや、本作にあたる言葉でいう、ZQNと同じなのである。
引き金を引く強さなんかより、引き金を引かない強さである。
最後はもう、何だかんだ運の強さで生き残った英雄が徹底的に追い詰められ戦うことを強いられるのだが――逃げずに彼は、仲間を守るために銃を撃って戦う。
海外の各国映画賞も勝ち取ったらしいが、そりゃそうだ。もう、誰だって惚れるし泣いちゃうもん。
ゾンビ映画で社会崩壊に至るまでのプロセスが大事って言ったけど、ヒーロー映画で大事なのはヒーローになるまでのプロセスだ。
そう、これはゾンビ映画でありながらも真っ当なヒーロー映画でもあった。『アイアムアヒーロー』。その題名に偽りなし。ひとしきり戦いが終わったあとの、マッドマックスを連想させるようなシーンも強烈で忘れられない。
そこに至るまで、英雄は『英雄と書いてヒデオです』と言っていたのだが、もうそれすらも必要ないのだ。
本当に守らなきゃいけないのは、当たり前としてされてきたものであり、そして、それを無自覚にも貫いてきたからこそ彼についていこうと思う者がいたのである。
最初は簡潔に済まそうとしたんだけど、テンションがデスロード並に上がってしまい、長文になってしまった。
いやはや、申し訳ない。
ゴールデンウィークも残すとこ、あと一日でありますが。
『アイアムアヒーロー』、これを逃したら絶対後悔すると思いますので。
どうか、新たなヒーローが生まれる瞬間を刮目あれ。
これを期に、制約をぶちやぶって新たな日本映画の時代が産声を上げたら……そうすれば、大勢のファンも生まれるんじゃないでしょうかね。
……いや、俺としては小説も読んでね! と映画業界に嫉妬したりもしるんだけど。
ともかく、以上、蒼ノ下雷太郎でした。
テンポのために、泣く泣くリンク張れなかった者達。