誰かを救うために、あいつをブッ殺せ!
なんて現実じゃありえないよ。聞いたこと無いよと思いたいのが人間というものだが、ネット上ではこんなのありふれている。いや、ネット上だけか? どうしようもない人の本性が現れるのは。現実もそうじゃないのか。
いやいや、じゃあお前はどうなんだ?
と聞かれたら、俺もしょうもない本性は出るだろう。
他人より優れてると証明したい。
ようは、何もないからこそ湧き出る劣等感。
醜いものだ。
しかし、醜くてもそれがなければ生きていけないのが人というもので、それを原動力にして怒りを燃やさなければじゃあどうやって生きて行けばいいのか分からない。だから、個人的には本性を認めつつ、それでも自分が成したいことのために戦って本質をみがきたいとは思っている。
ここで、だが! と言って、そのあとに「それができない奴もいる」と続けるのは話として常套句か。
しかしそれは、しょうもない本性なのではないか。
だって、自分はそういう素晴らしいことができるが、彼らはできないのだと見下すようなものだろう。それがロクでもない本性でないと言えるのか。
こういうふうに、人の本性なんてものは言葉だけでもポロポロこぼれ落ちる。
言葉はコミュニケーションツール。
自分が伝えたいことを伝えるためのツール。
その伝えたいことは頭で考える。
心が浮かび上がらせる。
本性だとか本質が何から生まれるのかは分からないが、心が本性や本質の塊であるならやはり言葉からポロポロそれらがこぼれるのは無理もない。
そしてそれは、役職が偉いから決まるわけでもない。
政治家でも、聖職者でも、医者でも、周りから偉人といわれる人でも、有名な芸術家でも――それは変わらない。
しょうもない本性はあるし。
本質も出る。
さて、『サイレントヒル:リベレーション』である。
映画『サイレントヒル:リベレーション3D』予告編 - YouTube
ニコニコで見た。
途中、はじき出されたりして、ギャーギャー騒ぎ、しょうもない本性が出たが。
それでも、最後まで見ることができた。
割とおもしろかった。
監督が違うからどうなるかと思ったが、異世界への変貌など、撮り方、あと何よりクリーチャーのまがまがしさが、鮮明でとてもよかった。
あのマネキンのとこででてきたクリーチャーとかね。クモのような手足をしていて、マネキンの頭をいくつも持っているアイツ――もう、かわいくてしょうがないのだが。
まあ、ここに出てくるクリーチャーはどれもまがまがしく、恐ろしいんだ。
他にもレッドピラミッドというクリーチャーが出てくるが。
筋骨隆々の男が、ピラミッド状の兜をかぶって、大なたを振るう。
サイレント・ヒルというゲームを代表するようなクリーチャーで。
映画一作目でも怪力で鉄のドアを貫くは(確かしてたよな)、拳銃で腕を撃っても――逆にいうとそれくらいしかダメージを与えられないは。ゲームでも基本は不死身であることが多く、さらに物語の意味としても『処刑人』『裁きを与える者』など深い意味が込められている。かなり重要なクリーチャーだ。
そう、この映画のサイレント・ヒルはある人物の感情が発露したことによって――闇の世界が現れた。そのため、出てくるクリーチャーもそれぞれ意味がある。
今作では守護騎士のような役割だったレッドピラミッドも、前作では違う。
いやまぁ、少女が抱く男性性への恐怖をあらわしてるらしいんだが……。
前作を見ていていただければ、より分かると思う。
前作はともかくすごかった。
ネタバレしちまえば、カルト教団によって火あぶりにされた少女が復讐のために闇の世界を呼び寄せた、のだ。
だから、あの街にいた信者達はバンバン殺されていく。
一応、信仰の力とやらで教会の中だけは無事らしいが――
最後は、もう虐殺のかぎりを尽くすんだ。
それも、納得してしまうものでね。
カルト教団は少女を火あぶりにしたことを悪びれるどころか平然――いや、むしろちゃんと殺せなかったことを後悔すらしてる有様でね。
その上、主人公の娘を次の生贄にしようとするは、実際に仲間の一人が先に火あぶりにされるは――もうここで、主人公と観客は思っちゃうんだよね。
(あ、もうこいつらはダメだ)
言語が通じないってレベルじゃない。
理解できない。
したくもないし、する価値もない。
見下す、嫌悪、何でもいい。観客が主人公の目を通してそう悟ってしまうシーンだった。
だから、最後に起こることも壮絶で――
皮肉なのは、どんなにドス黒くて恐ろしい闇の世界も。
クリーチャーも。
少女を救ってくれるもの。
ようは、ヒーローのようなものなんだ。
そう、皮肉なのは悪夢でしか彼女は救われなかった。
対して、彼女をここまで追いつめたのは自分らを善というカルト教団だ。
自らを善といいながら、虐殺や差別、集団暴行をしでかす奴らは現実世界にも山ほどいる。
しょうもない本性だ。
だが、周りがこんな奴らばかりだからこそ、輝く本質もある。
第一作の主人公は女――母親だ。
原作のゲームは父親、男なのだが、映画では改変されている。(見事、といえる)
だから、火あぶりにされた少女――アレッサと、その母親の関係も鮮明になって栄えたんだ。
アレッサの母親は娘を愛していた。だが、カルト教団によって火あぶりにされたとき彼らを止められなかった。
だが、彼女は罰せられることはないんだ。闇の世界が広がっても、彼女だけは教会の外にいても、彼女は罰せられない。殺されない。
その理由は、主人公のクチから告げられる。
その理由はとても簡潔で、説得力のある言葉だ。そしてそれを言ったのは、誰よりも作中でふさわしい人物――そう、カルト教団と戦い、闇の世界にも屈しず娘を助け出そうとした母親だからこそ言えるモノだった。
……まあ、続編の今作ではその母親はちょっとしか出ないんだけど。
あと時間が96分か。それくらいしかないから全体的に駆け足気味だったし、どうしても足りない部分はあるんだよね。
でも、それでも、純粋なものが出てきてよかった。
例え周りがどんなに狂っていても、ヴィンセントのように誰かを守ろうとする奴はいたし、父親、そしてヘザーのような奴はいたんだ。
そう、罠だと分かっていても決死の覚悟で、誰かを助けに行くような奴。
犠牲を払ってでも誰かを守ろうとする奴
ホラー映画って、血は出るし臓器はぐしゃぐしゃで感情もドロドロと、嫌悪されがちだ。
でも、ホラーって――恐怖。人の原初的な本能だからこそ、人の本性――本質がありありと描けるんだよね。
ゾンビものは、生き残ろうとする人々の人間関係、絆が描かれたりもするし。(誰かを支配しようとする独裁者も出たりするが)
四谷怪談なんて恋愛ものだ。(良くも悪くも)
そう、見た目は血がベタベタでどす黒くても、意外と中身は純粋なものが多いんだよ。
サイレント・ヒルの映画版で見えてきたのも、母親と娘の愛――いや父親も含めた親子愛だった。
今作は、父親を助けたはいいが、最後は娘と別れる。
母親を探すためだ。
(ヴィンセントもいるし、教団も滅んだ。だから、娘はもう大丈夫だったというのもあったろう)
だが何より、母親と父親はもう教団の奴らと同じような存在になったから――サイレントヒルに残ったのではないか。
母親は、前作のラストで(もう、こいつらダメだ)と思ってしまった。もう、こいつら死んでしまえと思うような事態になったのだ。そして、実際にそれは行われた。そう、ある意味では彼女も加担者になってしまった。
父親は実際、教団の一人を殺してしまった。
いくら娘を守るためとはいえ、身を染めてしまったんだよね。
だから、二人がサイレントヒルにいるってのは、そういう意味もあるんだと思う。
もうもどれない、という。
でも、二人は娘のためなら分かっててもやっていたと思うんだ。今でも後悔してはいないと思う。
そう感じるからこそ、娘に別れを告げる父親のシーンは泣けたね……。
ホラー映画が苦手な人は多い。
俺も子供の頃は苦手だったし。今でもけっこう苦手だ。(ホントだよ)
でもね、ホラーだからこそ見えてくる景色もある。
それこそ、どんなキレイな童話より鮮明に伝わるキレイさ――美しさもあるんだよね。恐怖につつまれていたから、こそ。
だから、ホラー映画が苦手な人も、ちょっと足を踏み入れてみてほしいと思う。
いや、無理しなくていいけどさ……。
でも、苦手だからってホラー映画を……頼むから嫌悪しないでほしいものだ。
いや、中には殺すだけの映画もあるけどさ。
だからって、嫌悪でにらまないでくれ。
その目だって、本質とは言えないものになってしまう前に。
などと、深夜になって書き込む雷太郎なのでした。
また、次回!