「博士も知らないニッポンのウラ」で、幻冬舎編集者の見城徹さんの回があったけどね。
そこで出てきた言葉で、圧倒的な努力ってのがある……。
これまで数多くの作品に関わり、ベストセラーだけじゃなく、直木賞作家だって何人も出してる人がだよ。
そういう人から¥ら出る言葉は、やっぱ違うんだなと……。
(ここのインタビューでも出てるけどね)
俺もチョット、がんばらないとね。
最近の若者はさ、こういう熱血についてないだとか。
努力が足りないだとか。
失礼なことをいうおじさまがいるわけじゃない。
そんなわけない。
俺達の若者(雷太郎が若者の範疇にあるかはさておき)だって、これぐらいの熱血でがむしゃらになりたい者はいっぱいいるんだ。
でなきゃ、『クリード』なんて映画は成立しないんだよ!
俺だって、クソみたいな小説書いてんじゃねーよ馬鹿! とか思ってるよ!(失礼)
だけど、それを陰でグチグチいってもしょうがないわけでね。
俺は成功しなかったー。
それはあいつらのせいだー。って。
トイレの便所に落書きを書いても、クソより見られる勝ちのないもんでしかない。
だったら、それを覆すほどの――ね。
もう、何か色々とブチ壊してやりたいじゃない。マッドマックスじゃない。(結論、はこれ)
好きな作家というか、音楽評論家で吉田秀和って人がいるんだけど。
(多分、村上春樹はこの人の影響受けてると思うんだけどなぁ。いや、海外文学だけじゃなくてね)
この人の本で、『主題と変奏』というのがある。
前にも一度あげたけれど。
その中の一節を引用すると。
文学など、何という不純な夾雑物にみちみちたものだろう。ことにたいていの小説は、たまらない。いまだに現実という尻尾をぶらさげている。
吉田秀和『主題と変奏』
いや、一応小説家になりたい、ありたいと思ってるものからしたら、だからこそ価値があるとは思うんだけど。
でも、この人の言いたいことも分かる。
この文は『だが、音楽はそうじゃない』というように話は続くけど。
だからこその解放なんだろうね。
現実なんてクソつまらないものから解放される。でなきゃ、意味がないじゃない。
退屈でありきたりで、それこそ毎日同じ事の繰り返しで、妥協してあきらめて。
そんなのがイヤだから小説家になろうと、他の人だったら漫画家や音楽家――になろうとしたんじゃないの。
それが、そこでもあきらめて妥協して。
結局やってることは同じじゃん――ってなったら、もう意味がね……。
何で、ともかくやれるだけやってみようと思う。
朝にやってるブログ小説の方は、おかげさまでアクセス数がいい感じです。
あとは……夜にも、やれたらいいな。
それこそ、こちらも交互に毎日更新。
番外編じゃなく、前々から投稿してる『analecta』というノクターンに出してる小説と合わせて、また『7start 2.0』の番外編を書けたら――
道のりはまだ長いが、やってみようと思う。
以上、蒼ノ下雷太郎でしたぁ。