ふと、思った。
人々は、アニメやラノベに多様性を求めようとする。何回目だよ、萌え萌え。またかよ、異世界転生というふうに、テンプレを嫌悪し、憎み、革新性――いや、多様性を求める。
だが、じゃあそれを見てる側は多様性があるのか?
ふと、思ったのだ。
確かに何回も同じことをされたら飽きるのは世の道理だ。すばらしいものは何回見てもすばらしい。歌舞伎の感性がこの国にはあるが、しかし、歌舞伎でも何百回でも短い間隔でお岩を見たら飽きるんじゃないか。いくら、大がかりな仕掛けも二回、三回、四回と慣れていき、飽きる。だから、人々が多様性を求めるのは分かる。萌えの数にしても、異世界転生の数にしても、いやそれ以外にも俺TUEEEEEEだとか、ハーレムだとか、何でもいい。ともかくテンプレは明確に形作られ、細分化され、やたらと数がある。で、それらに細かな違いがあればいいのだが、実際は大して違いがない製品が目についたりもするのだろう。これ、深く語ると矢が飛んでくるので言わないが。(めんどくせー)
だが、だったらそれを見るオタクの側は、多様性があるのか?
もっとこう、刺激が欲しいんだよ。アクションとかさ、萌えとかじゃねーんだよ。って言ってる奴は、じゃあ何を見てる? 香港映画か、昔の7~80年代の日本映画か、それとも最近のタイやらインドネシアのアクション映画か、それともうなぎ上りの韓国映画か、いやいややっぱアメリカの大迫力映画か、何を見てるというのか。
(いや、ここまで語ってる俺だって、人をどうこう言うほど詳しいわけじゃないけどさ)
何が言いたいかっていうと、本当に変えなきゃいけないのはオタクの側だと思うんだよね。
いや、もちろん、クリエイターももっと変える必要はあるだろうけど。(庵野監督のアニメ業界オワルよ、とか。業界人でも何回もやばいと言ってるんだから)
でも、オタクの側だって変わる必要があるんじゃないか。
オタクが求めるからこそテンプレが大量生産されるんであって(一応言っておくが、テンプレを一丸に否定するわけじゃないからね)、求めなきゃテンプレは大量生産されないのだ。因果応報、自業自得。オタクが求めたからこその結果であり、クリエイター側だけを責めるのはおかしいじゃないかな。
(……いや、クリエイター志望としては失格な意見かもしれないけどさ)
だけど、例えばとある有名ミステリーがアニメ化された際に、あんまこいつらミステリー読んでねーんだなと思うような発言が飛び交い(いやこれもまた、俺は人のこと言えるほどじゃないんだが)、何だかなあと。
本当に多様性のある――閉塞感をぶち壊すような革新性が現れても、このままじゃ俺等は気づきもせずに素通りさせちゃうんじゃないか――と、焦ってしまったのだ。
面白いものを見たいんでしょ? だったら――という次第である。
以上、蒼ノ下雷太郎でした。
もちろん、クリエイターも負けないようにがんばらなきゃね。俺はあくまでクリエイター志望だけど!