最近、民族衣装などを調べている。
調べると、事実は小説よりも奇なりの言う通り、そこら辺のファンタジー小説よりファンタジーだと思ってしまった。(これ、言い方がひどいかな?)
いや、自分と異なる文化圏のものというのは、それぐらい価値があるといえる。
幻想ってすばらしい。
最初に、文化圏の衣装の違いなども書かれていて、より楽しめる。
写真に映るのは、表紙のようにコインのようなのをつけてる女性や。
鳥のクチバシのようなのをつけてる写真など。
日本もふくめた、世界中の民族衣装がある。
人は論理的じゃないというのは嘘だ。そういうこと言う奴は嘘つきだ。
人こそ、もっとも論理的な生物。
鼻がかゆいからかき、眠いから寝る、トイレ行きたいからトイレ行く、無駄と見える行為だってよくよく考えると何らかの理由があり(深い理由じゃないが)全て論理という糸によって説明できる。
論理を冷たいだとか、非人間的のようにとらえる人がいる。
その人も大嘘つきだ。
論理こそ、最も人間らしさがあらわれるんじゃないか。
何々があって、こういう理由があって、結果が創造される。
民族衣装はとくに論理のたまものだ。
砂漠地方の人々が厚着に見える衣装なのも、他の細かな民族衣装も、表紙のコインのようなのだって意味がある。それは、日本の着物も同じだ。
俺は論理がスキである。
以前も言ったかも知れないが、自分は論理フェチだと思っている。
“何々だから、何々である。”
生物なんてものは生きるために、もしくは幸せになるために、何かをする。それこそが行動で、その連なりが論理。論理を見ると、どうしても人の生き方というものが見えてくる。
だから、俺は論理フェチなのである。
カクヨムで投稿しようと思っている『7start』には。
無数の人々が住んでいて。
舞台の地下都市は、六角形をしており、その一つ一つの角に街があり、最後に中央に小さな六角形の街を含めて全部で七つ――七つの街がある。
その街ごとに特色ある文化やら価値観があって――まあ、それらが対立し、抗争する話なのだが『7start』だ。
論理と論理の衝突ともいえる。
論理は一本の筋で見れば通っているかも知れないが、これが重なると途端筋が通らなくなる。
だから、最終的には二つの糸は戦うという論理に辿り着く。
これは悲しいことかもしれないけど、でも戦わないと分かることがある。戦いというのは、己の全てをさらけだすようなもの。
いやまぁ、そればっかじゃ困るのだが。
今朝もちょいちょい書いてますので。
気になった方は、カクヨムの公開時によろしくお願いします。
蒼ノ下雷太郎でしたぁ。