作品におけるリアリティって、とても重要で。
それを考えるようになったのは、某少年漫画からなんだけど……。
おきまりよろしく、少年少女、おっさんおばさんなども含めて、異能力者がバトルするものだったが、途中まではドラゴンボールのスカウターよろしく、戦闘力が表示されて、それでどうたらこうたらしてたが、後半からはもう、これまで暴れていた異能力者達が、現代の銃火器にあっさり負けちゃうシーンが出てきてね。
(いや、これはあとでラスボスが逆転するんだけどさ)
あそこから、もう作品のリアリティなんて皆無になってきて、正直読めたもんじゃなくなったな……。
いやだって、超能力が実際できたとしてもさ。
例えば、スプーン曲げ。
あれ、できたとして、それでどうする?
何になる?
スプーン曲げができたとして、そんなんが何になるというんだ。
銀行の金庫をあけたり、透明人間になるならまだしも。
スプーンを曲げるなんて、ドウェイン・ジョンソンなら普通にやれそうだし、それを超能力でやられたところで、「で?」となる。
ま、だから、大勢の前で披露して、「すげー」と言わせてお金をもらうしか、ないのかな。でも、あれって手品師だって似たようなことはできるんだし、唯一無二の能力じゃ全然ないよね。
90年代や、2000年初頭までは、そこら辺のリアリティは何故かぼかされていて、みんなオカルトに夢中になっていた。
あとで冷静に考えると、超能力捜査官がほんとにいて成果を出してるなら、何故公表されない。隠匿する必要がある? いや、だったら何故日本のテレビ番組なんかには登場したりする? とツッコミところが多いのだが。
リアリティなんてものは薄皮一枚でしかない。あの当時はそれがものすごい強度を出して、日本中を、いや日本だけじゃなくおそらくは世界中でオカルトが浸透していた。今じゃもう……だけどね。
この前、『ミスター・ガラス』を見た。
シャマラン監督の二作の続編としても見れる、一種のアヴェンジャー的作品。
あらすじは、特殊能力を持つと自覚し自警行動をしていたおっさん(アンブレイカブルの主人公)は、ある多重人格の犯罪者と闘い、その最中、警察にとらわれ、精神病院に連れられる。そこで、自分は特殊能力を持っていると思っていた彼は、そんなことはない、自分はちょっと人と違うことができるように感じただけの、一般人なのでは、と困惑することになる。
ぶっちゃけると、話の枕で語った少年漫画においては。
銃火器に勝てないのなら、いくら超能力があろうが、一般人と変わらない。
戦いに勝つことだけが、目的の場合だったらだ。
(ジョジョなどは、そこを上手く変えているが)
ミスター・ガラスでは、何度も『本当』か『偽物』かを考えることになる。
日本の妖怪が、近代化の道を進むと同時にほとんどが、ただの自然現象になるのと同時に。
かまいたち、なんて妖怪なんておもしろい例だ。
あれだって、どんな理屈があろうが、いきなり人体が切れてしまう、なんて恐いことだろう。
だがそれが、妖怪から自然現象になることで、恐怖はなくなったと思い込まされた。(実際は自然現象も微妙に違うんだっけ? テレビで見たやつの記憶なんてあいまいだが)
リアリティなんてものは、洗脳なのかもしれない。
本来はありえないことを信じ込ませるのが洗脳であるのなら、クリエイターが創作するものに使用するあらゆる技術は洗脳で間違いなく、だからこそ、それが解けてしまったときは、何もなくなる。
ゴジラやキングコングなどの怪獣もただの着ぐるみなり、貞子も特殊メイクした女優になる。
ミスター・ガラスは、何度かそのようなことを問う場面も出てきて。
途中から、確かに『これはすごい!』と思えるような能力者が出てくるんだけども。
でも、クライマックスの展開で(あ、あれ……冷静に考えるとこいつ、警察の機動隊でどうにかなるもんなの?)となったりする。
何度も何度も、リアリティの壁、薄皮一枚でしかないものを問いかけ続け、見てる者にその皮を見せびらかして笑いかける、バットマンのジョーカーよろしくな作品であるが、最後の最後には、『あっ』といわせるような展開になる。
日本の、宮崎駿や庵野秀明などが目指してきた『現実と虚構』の境界線を壊すようなことをだ。
いや、これも冷静に考えてみると、(え、ラスボスが革命家っぽくなってるよww)となるんだけどさ。
でも、ヒーローものが好きなオタクとしては、やっぱうれしくなるよね。
超能力が本当にあるのなら。
ヒーローだって本当にいるんじゃないかって。
いや、これも冷静に考えてみると、超能力=ヒーローではないんだけどさ。
とりあえず、今日は以上で。
蒼ノ下雷太郎でした。した!