ミセス・ノイズィを見てきて、どえらい人が来たと悟る
映画、見てきた。
水曜日はサービスデーだし。
かーずspさんだっけか。そこで、伊集院さんが紹介してたのを紹介してた、よく分からない感じになってるけど、評判だと聞いて。
で、ともかく、行ってみたのだ。
これがもう、超絶おもしろかった。
どんな語彙力してんだよと思われるかもしれないが。
もう、世間体はどうでもいい。
ともかく、おもしろかったのだ。
出だしから主人公に感情移入して。
場面が二転、三転もして。
ちょ、え、もう止めてっ! と、極上のジェットコースターのように振り回され、「ええええっ、これ、どう着地すんの!?」「そう来たかああああああああっ!」と、最後は納得のラストを迎えていた。
いや、これの元ネタが『騒音おばさん』って。
ここから、社会派を感じさせ、かつ泣いて笑って、最後は「うわあああああああっっ!」とガッツポーズ取りたくなる映画だとは思わなかった。
てか、誰もが予想できないだろ、これ。すさまじい。
ここ数年見た中で、まちがいなく、一番の作品でした。
あれか。
『ゴーン・ガール』見たとき、監督にまんまと心をわしづかみされたまま、最後は「えええええええええええええっ!?」と驚愕させられたが、あれに近い。
終始、この映画は超ベテランが撮ったんじゃないか。
てか、監督デヴィッド・フィンチャーじゃないんか。デヴィッド・フィンチャーが来日して、つい、日本で撮っちゃった、じゃないのか。ものすごいぞ、ほんと。
帰りの電車でも映画見た余韻につつまれて、(あれだけ面白い作品があるのに。俺は何をしてるのだろう……)と落ち込んでしまった。とほほっ。
映画館はこの時期だが、満員で。
見てる間も、ぐすっ、と泣いてる人もいた。(別に、感動的な音楽を流すシーンはない)小さい映画館ではあったけど、あそこまで観客の心を振り回す作品ってそうそうあるもんじゃないよなぁ。
あぁー、くやしい。
また、俺が見た映画館では、キャストの方が『マスク』をおみやげにくれた。
ほんとは、このときに「おもしろかったです!!」と言えばよかったんだけど。
申し訳ない、そんなコミュ力、俺にはなかったんです。ごめんよぉ。
あの、おばさんの旦那さんがマスクくれて、内心「おっ、生きてた!」と思いました。すいません。いや、最後らで出たけど。いや、こんなこと思う余裕はあったけど、言葉は出なかった。申し訳ない。
ともかく、久々にどえらい人が出てきたな、と。
こんな時期でタイミングが悪いかもしれないけど。
でもこの作品、来年アマゾンプライムで配信、金曜ロードショーで放映、と言われても全然不思議じゃないぞ。てか、そのぐらい起きないと世の中おかしいぞ!
そのくらい、素敵な作品でした。
俺も、面白い作品を書きたいなー。
久々にこういう体験ができたのはおもしろかった(十三機兵防衛圏 感想)
今、小説を書いている。
最近、サイバーパンクがやたらとなじむようになり、書いてるのもその手のものだ。
サイバーパンクは企業と民衆、圧政される側とする側を描き、日本では逆に警察の側が主人公になり、体制側にいたりもするが、やはり自分の世代がサイバーパンクどんぴしゃというか、その影響を受けた日本のSFに影響を受けた世代なので、胸にドンッと来るものがある。
俺だけじゃなく、クリエイターというのはそういうもので。
自分の世代に流行っていたものに影響され、それを作品に出すものだ。
とくにそれが強く見受けられるのが、去年の終わり頃に発売された。
いやもう、各所で絶賛されてるとおり、すごいおもしろい。
正直、俺がここで紹介するまでもないのだが。
基本は、三つに分けられている。
一、ノベルパート。
二、バトル(タワーディフェンス型の)
三、用語や時系列の載ったリスト
三は、一と二をクリアしながら、順次に進めていけばいいのだが。
ほとんどは、このノベルパートとバトルを交互にやっていくようになっている。
交互にやっていき、埋まっていくのは情報だ。
正直、最初やった段階では謎が多く、何が何だかという話なのだが。
しばらくやっていく内につれて、物語の骨子が見えてきて、さらにそこにある隙間が気になっていき、気がつけば、終わるまで続けてしまうという欲求が生まれる。
こう、ゲーム内における物語、世界観だったりが主体となるのは、これまでも色々あったが。『ひぐらしのなく頃に』なんて、俺はドンピシャの世代で、コミケに並んで買って、翌日メロンブックスで普通に売ってるのを見て愕然とした記憶がある。しょうもない記憶だが。
久々にこういう体験ができたのはおもしろかった。
ノベルとバトルを進めていくのはあれだね、ひぐらしの続編が待ちきれず、考察板で必死に情報をかき集めたのと似てる気がする。
ただ、個人的には惜しいなという感じるのもあって。
いや、これはただの個人の意見だが。カップリングなど、妄想の隙間なるものがなく、物語上でほぼ確定してるのがなぁ。ちょっと不満っちゃ、不満なんだけど。
終わりまでやれば分かるけど、確固たる物語がちゃんとあって、他のゲームのように、このキャラとキャラは付き合ってるだの、妄想する隙間がないんだよね。ほら、ファイアーエムブレムとか! あーいうのがないんだよ!
まぁ、作品の性質上、しょうがないというか。そういうゲームではないといえば、それで終わりなんだけど。
しかし、ここまでSF要素をつめこんで、中には相殺してしまう要素もあったり、(無茶した感はあったが)全てつみこんだのはすごかった。
タイムリープだけじゃなくアンドロイドや平行世界、仮想世界、もう何でもござれだ。
最終的には、ちゃんとSFとして、というかジュブナイルSFとして完結できていたのも壮観だ。
ふぅ、がんばって、仕事して買った甲斐があったよ。
以上、蒼ノ下雷太郎でした。した!
明確に濃厚で強烈な油絵として(『パラサイト 半地下の家族』感想)
仮面ライダーの映画から、それほど時間は経ってないけど。
すごい、久々に映画館に行った感覚だった。
以前は一ヶ月に何回も行ってたんだけど、お金がねぇ。交通費でも、それなりにいくからね。うん。
お目当ての映画は、最近話題のあの映画だ。
外国の章、それも世界の中心的なアメリカのアカデミー賞を史上初だというのだから、そりゃ、みんな注目しますよ。
館内には、老若男女、まだ学生ぐらいの若い子から年配の客まで幅広かったです。まだ、映画を見る世代はこれだけいるんだね。じゃあ、普段はどこにいるのって話だけど。
ポン・ジュノの『パラサイト 半地下の家族』見に行きましたよ。
ポン・ジュノ監督というと、パッと思いつくのは『グエムル』や『母なる証明』か。
この前、ポン・ジュノ監督がやったってことで、『スノーピアサー』という映画も見た。これは、アマゾンプライムでやってたんだけど。
おもしろい映画だった。
原作はヴィジュアルノベルだって。
あらすじは、文明が荒廃し氷河期となった時代に人類のほとんどが列車に詰められた世界が舞台で、貧困層や最後尾に裕福な者達は前の方で暮らしていて、これらは一生変わることのない役割といわれ、最後尾の者達は長い間、苦渋の生活を強いられてきた。
だが、ある日を境に反乱が起こるんだけど。
って話だ。
ここら辺の設定は、パラサイトでも続いている。
昔、何の本で読んだかな。
是枝監督の作品にも似たようなシーンなかったっけ、体臭など、目に見えないけど誰もが気になるものが、重要になるのが辛かったね。
パラサイトのあらすじを語ると。
半地下、家が半分だけ地下に埋まっていて、窓からは半分だけ道をのぞけるって住居に住む家族の話だ。
その家族は、ほぼ内職だけで食ってるのか。スマホはあっても他人のWi-Fiにタダ乗りして、日中もひたすらピザ屋の箱を折って畳んでの日々。
だが、長男が友人の紹介で家庭教師のバイトやってみたいかと誘われる。
長男は大学に行ってないのだが、友人や家族の助けで(犯罪ともいう)家庭教師に採用される。調子に乗った彼は、雇われ先の豪邸の娘以外にも、弟も教師を募集してると聞き、妹もここに来られるのでは、と考える。
で、ま、あとは題名通りにテンポよく進んでいくのだが。
途中から、観客が驚くような展開になる。別に驚天動地とまでは言わない。ある程度は展開が読める内容だ。しかし、テンポが良く、豪邸の家に寄生することになった家族にも夢中になってしまい、気がつけば、最後は悲しい気持ちになってしまった。
テンポよく話は進み、エンタメとしてのゲラゲラ笑えるコメディや、ハラハラさせられるサスペンスが盛り込まれ、それだけじゃなく、世界中で問題となっている貧困、格差問題もえぐってくる深い内容。
こりゃ、受賞するよなぁ。と納得させられる内容だった。
個人的に「ん、あぁ」とうなったのは、ある人物がキレてある行為をしでかすところなんだが。
その動悸も、下手にクチで説明したりはしないんだよね。
本当に絵だけで、登場人物の表情や雰囲気だけで伝えてくる。不鮮明な繊細な水彩画ではない、明確に濃厚で強烈な油絵として。
水の災害が多いこの国では、このパラサイトのある場面は共感したんじゃないか。俺も去年、近くの小学校に避難したよ。
ともかく、見るなら今、って映画でした。
以上、蒼ノ下雷太郎でした。
夢はあきらめませんが!(「仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」 感想)
昨日、バイトの帰りに風邪引きましてね。
前日家に帰ってからも本を読んだり映画見たりと、ハッスルしていたせいもあるのか、若干目が痛いというか、頭痛の感じがあったし、昨夜はもう、うなるほど頭が痛かったのですが、とりあえず、今は大丈夫です。
あれだね、もう歳なんだろうね。
寒い中、何時間も屋外で立ってる仕事ですが。
昔だったら、それでも耐えられましたが。
二十代も終わると、段々と耐えられなくなっていく。
本を読むのはまだまだ大丈夫だけど、肉体労働のあとは辛いかなぁ。
ま、でもね。
お金をかせぐため、仕方ないんだけど。
お金がないと生活もできないよね。
風邪薬を買うのも、またお金がいるっていう。とほほ。
聞く人によっては、世界残酷ホラーなみに怖いこと言っちゃいましたね。
どうも、蒼ノ下雷太郎です。
まーた、間をおいて書くことになっちゃいましたが。
どうしても、マメに書くのが苦手なのかね。
ライダーの映画もずっと前に見たし、そのこと書こうかな。
公開されて、次の日曜日に見に行ったんだけどね。じゃ、すぐ書けよって話だけど。
でも、百合SFのにチカラ注いじゃっててね。
ゼロワンとジオウが激突? 劇場版最新作「仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」特別映像公開
「仮面ライダー 令和 ザ・ファースト・ジェネレーション」
おもしろかったです。
最後のジオウは、オリジナルキャストが勢揃いしてグランドジオウに変身だ! という夢を未だにあきらめきれない雷太郎ですが。(い、いつか……細川さんや水嶋ヒロさん、オダギリジョーさんもいっしょに…)ま、でも、今回は主演二人の物語ってことで、すっきりしてて良かったと思います。
夢はあきらめませんが!
ドラマ終了後のジオウの世界に、突如異変が起こり、それによりゼロワンの世界にも妙なことが起きて、アナザーゼロワンが出現するという。
こうして、ジオウの奥野荘とゼロワンの高橋文或を並べると。
二人ともかっこいいというか、二人の良さがしみじみ出てて良いよね。
奥野は、すごいさわやかなんだけど、魔王のような禍々しさもどこかあって。
高橋は、喜怒哀楽の表情一つ一つがおもしろく、感情移入もしやすくて、だからこそ、彼の奮闘に感化される。
今回はすごくシンプルに話がまとめられて、もう予告で使われていたあのソウゴの言葉に集約されてるんだけど、それが一年がやってきた20人目のライダーであるソウゴだからこそ言える台詞であり、そして、『祝え!』をあえてなくして、さわやかな祝福を受けたライダーが、ここで道を決めるっていう。
昔、平成二期でその役目を担った『仮面ライダーW』がありましたが、あれに近いですね。
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あれから、ディケイドのツカサと、Wの翔太郎が共演する度に、感極まるのですが。
一つの時代のはじまりと、終わり。
でも、だからって気張る必要はなく。
これからも生まれる、新たな者達が、それぞれ礎になるんだ。
というようにね。
で、シンプルなテーマってのは悪いことじゃなく、シンプルだからこそ、より胸に響くものがあってね。うっ、と泣いてしまいましたよ。
これからも、ライダーを見続けよう。
以上、蒼ノ下雷太郎でした。
こんな時間に起きてどうしようと思いましたが、とりあえず、ブログ執筆で。
今回、第2回百合文芸に応募しまして
この前、仕事をやめました。
といっても大分前になるのですが。
今はティッシュ配りの仕事をして、食いつないでおります。
一応、歩合制じゃない方なので、がんばればお金はもらえるのですが。
革靴で長時間やると、足の感覚が変になりますね。いえ、これぐらいで何愚痴ってんだ、と言われるかもしれないですが。
どうも、あけましておめでとうございます。
遅いですね。
蒼ノ下雷太郎です。
今回、第2回百合文芸に応募しまして。
これまた、報告するの遅いですね。
百合ものは過去に何回か書いておりまして、今回はSF風味で書かせてもらいました。
あらすじ、としましては。
2045年の日本が舞台です。
日本のGDPは7位に転落、産業は衰退し、高性能AIによりホワイトカラーも仕事を奪われる時代です。
主人公、比嘉カオルはVRゲーム『R弐=世界』をプレイする女子高生です。
このゲームはEP(イー・ポイント)というエネルギーを消費し、戦います。これは仮想通貨としても世界中に浸透しており、彼女はお金目的でプレイしていました。
しかし、プレイするにはあまりに過酷な仮想世界で、ともかく腕や知恵がものを言います。他のMMORPGのように誰でも強くなれるわけじゃなく、プレイヤー自身のチカラだけで戦います。
彼女はそこで、からだを売り、その途中で騙し討ちをして生きてました。
毎日、自身の存在に頭を悩ませる日々。
そんな中、最強のプレイヤーの噂を聞きます。
マゼンタ。
自分のような卑怯な手を使わず、かつ、大手のチームに入らない、単独で仮想世界を震撼させる。
彼女はマゼンタを調べていく内に、より仮想世界にのめり込んでいき……。
といった具合です。
いろんな要素が入った百合SFですが、どうかご覧あれ。
以上、蒼ノ下雷太郎でした。
あぁ、しまった。時間がない、早く支度をしなきゃ。
コミケ、行ってきました
コミケ、行ってきました。
といっても、写メ、全く撮ってないんであれですけど。
同人誌は二点、購入。
衝動に身を任せて、気がついてたら買ってたよ。いやぁ、欲望の奴隷だね。
しかし、コミケはお昼から行ったら、空いてるかなと思ったら……。
リストバンド、会場から離れたとこにあるのね。かなり大変だった。
企業ブースも一駅分、歩く場所だから、最後は間に合わなかったなぁ。
コミケ、いずれは民間じゃなく企業のものになるのかねぇ。と、妄想なんかしたり。
いや、まぁ、素人玄人の同人誌が大量に集まって、情報も実物も交換される市場って、かなり貴重な場所なんでね。続いて欲しいけど。
てか、今回良かったと思えるのに出会えたしねぇ。
最近は漫画ばかり読んでいて、小説は積読を減らせていない。
どうしても執筆作業に入ると、読む比率は減っちゃうよね。んぅ。
今は、百合SF書いてる。ピクシブの。
そろそろ書き終えて、出す。いつもギリギリのスケジュールだが、満足のいく作品にはなると思う。ので、読んでくれたらうれしいです。
ともかく、以上。蒼ノ下雷太郎でした。した!
薄皮一枚のリアリティ(『ミスター・ガラス』感想)
作品におけるリアリティって、とても重要で。
それを考えるようになったのは、某少年漫画からなんだけど……。
おきまりよろしく、少年少女、おっさんおばさんなども含めて、異能力者がバトルするものだったが、途中まではドラゴンボールのスカウターよろしく、戦闘力が表示されて、それでどうたらこうたらしてたが、後半からはもう、これまで暴れていた異能力者達が、現代の銃火器にあっさり負けちゃうシーンが出てきてね。
(いや、これはあとでラスボスが逆転するんだけどさ)
あそこから、もう作品のリアリティなんて皆無になってきて、正直読めたもんじゃなくなったな……。
いやだって、超能力が実際できたとしてもさ。
例えば、スプーン曲げ。
あれ、できたとして、それでどうする?
何になる?
スプーン曲げができたとして、そんなんが何になるというんだ。
銀行の金庫をあけたり、透明人間になるならまだしも。
スプーンを曲げるなんて、ドウェイン・ジョンソンなら普通にやれそうだし、それを超能力でやられたところで、「で?」となる。
ま、だから、大勢の前で披露して、「すげー」と言わせてお金をもらうしか、ないのかな。でも、あれって手品師だって似たようなことはできるんだし、唯一無二の能力じゃ全然ないよね。
90年代や、2000年初頭までは、そこら辺のリアリティは何故かぼかされていて、みんなオカルトに夢中になっていた。
あとで冷静に考えると、超能力捜査官がほんとにいて成果を出してるなら、何故公表されない。隠匿する必要がある? いや、だったら何故日本のテレビ番組なんかには登場したりする? とツッコミところが多いのだが。
リアリティなんてものは薄皮一枚でしかない。あの当時はそれがものすごい強度を出して、日本中を、いや日本だけじゃなくおそらくは世界中でオカルトが浸透していた。今じゃもう……だけどね。
この前、『ミスター・ガラス』を見た。
シャマラン監督の二作の続編としても見れる、一種のアヴェンジャー的作品。
あらすじは、特殊能力を持つと自覚し自警行動をしていたおっさん(アンブレイカブルの主人公)は、ある多重人格の犯罪者と闘い、その最中、警察にとらわれ、精神病院に連れられる。そこで、自分は特殊能力を持っていると思っていた彼は、そんなことはない、自分はちょっと人と違うことができるように感じただけの、一般人なのでは、と困惑することになる。
ぶっちゃけると、話の枕で語った少年漫画においては。
銃火器に勝てないのなら、いくら超能力があろうが、一般人と変わらない。
戦いに勝つことだけが、目的の場合だったらだ。
(ジョジョなどは、そこを上手く変えているが)
ミスター・ガラスでは、何度も『本当』か『偽物』かを考えることになる。
日本の妖怪が、近代化の道を進むと同時にほとんどが、ただの自然現象になるのと同時に。
かまいたち、なんて妖怪なんておもしろい例だ。
あれだって、どんな理屈があろうが、いきなり人体が切れてしまう、なんて恐いことだろう。
だがそれが、妖怪から自然現象になることで、恐怖はなくなったと思い込まされた。(実際は自然現象も微妙に違うんだっけ? テレビで見たやつの記憶なんてあいまいだが)
リアリティなんてものは、洗脳なのかもしれない。
本来はありえないことを信じ込ませるのが洗脳であるのなら、クリエイターが創作するものに使用するあらゆる技術は洗脳で間違いなく、だからこそ、それが解けてしまったときは、何もなくなる。
ゴジラやキングコングなどの怪獣もただの着ぐるみなり、貞子も特殊メイクした女優になる。
ミスター・ガラスは、何度かそのようなことを問う場面も出てきて。
途中から、確かに『これはすごい!』と思えるような能力者が出てくるんだけども。
でも、クライマックスの展開で(あ、あれ……冷静に考えるとこいつ、警察の機動隊でどうにかなるもんなの?)となったりする。
何度も何度も、リアリティの壁、薄皮一枚でしかないものを問いかけ続け、見てる者にその皮を見せびらかして笑いかける、バットマンのジョーカーよろしくな作品であるが、最後の最後には、『あっ』といわせるような展開になる。
日本の、宮崎駿や庵野秀明などが目指してきた『現実と虚構』の境界線を壊すようなことをだ。
いや、これも冷静に考えてみると、(え、ラスボスが革命家っぽくなってるよww)となるんだけどさ。
でも、ヒーローものが好きなオタクとしては、やっぱうれしくなるよね。
超能力が本当にあるのなら。
ヒーローだって本当にいるんじゃないかって。
いや、これも冷静に考えてみると、超能力=ヒーローではないんだけどさ。
とりあえず、今日は以上で。
蒼ノ下雷太郎でした。した!