この前、新しいパンツを買ったはいいが、袋から出すのを忘れて数週間。今やっと袋から出したが、もう風呂に入ったあとだという。明日履こうか。
どうも、蒼ノ下雷太郎です。
何だ、上の枕は。意味が俺自身も分からないぞ。
さて、今日は『物には決ったよさはなく…』という本を読んだ。
何回か、吉田秀和さんのことは紹介してるが。(いや、してるよな、多分)
正直、音楽のことについて詳しく書かれてると、何も分からない。
そう、音楽評論家なのだ、この人は。
といっても長谷川町蔵さんや、萩原健太さんとはジャンルが違い(というかライターではないのか)、ポップではなくクラシックである。クラシックと聞くと、つい身構えてしまうが、実際はそんな厳格な印象はない。
むしろ、俺はある本の一文により、強い共感を得た。
それは、『主題と変奏』というこの人の処女作だ。
文学など、何という不純な夾雑物にみちみちたものだろう。ことにたいていの小説は、たまらない。いまだに現実という尻尾をぶらさげている。
吉田秀和『主題と変奏』
いや、ワナビとはいえ、お前一応は小説家志望なんだからこれはどうなんだ、と言われるかもしれない。
でも、この純粋さに惚れてしまったんだ。だってそうじゃないか、確かに文学は現実の尻尾から離れられない。いや、文学には文学の良さはあるが、それは現実という机の上で行われたものであり、そこから完全に飛び立つことも、破壊することもできないのじゃないか。(偉そうだな)
だが、音楽はどうだ。(この本の引用も、そのように続く)
とはいっても、現実がそこまで悲観的かというとそうでもないと思うけどね。
現実がないとエッチもできないよ、全く。いや、そういうことじゃないか。
でも、今朝もあれこれ書いたが、やはり創作家の一人としては憧れてしまい、共感してしまうのだ。
この現世から逃れる術が芸術であるなら、地に足をつくしかない小説より、完全に飛び立てる音楽に憧れる。
正直、吉田秀和さんが楽譜について語ると「?????」と疑問符ばかりになりエラーエラーとなるのだが、しかし、この人の文章は流れがよく、かつ表現豊かで読んでいて楽しい。音楽を知らなくても楽しい。やはり、たくさんの曲を聴いてきたからか、よどみなく文章が流れてくるんだね。スラスラと。結構難しい話題が出てきても、スラスラと入ってくる。だから、音楽をあんまり知らなくても読めちゃうんだ。
俺が吉田秀和さんを知ったのは、えーと、確か荻上チキさんのSession‐22だったかな。
それで、礒山雅さんという、この人も音楽評論家なんだけど、出てて。
で、試しに気になってこの人が書いた『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』という本を借りたんだ。
で、多分その本のどこかに吉田秀和さんの名前が……あったような、ないような。いや、あったかな? いや、もしかしたらネットで音楽評論家で調べただけかもしれない。キッカケはあくまでも磯山さんだけど。ぬぅ……。(何なんだ、俺は)
閑話休題。
吉田秀和さんに関しては、正直俺は当初は全然知らなかったんだけど。
日本の音楽評論に関して、先導的役割を果たしたって書いてあるね(wiki参照)。日本音楽評論の父っていえばいいのか。
実際、この人によって紹介された音楽家は数知れず、(グレン・グールドとか)、村上春樹さんも『意味がなければスイングはない』で音楽のエッセイを書いているが、吉田秀和さんの名前が出ていた。
他にも「子供のための音楽教室」で多分誰もが知っている人が出ていたり……後進の育成にも関わっていて。
ていうか、俺如きが語るには偉大すぎるお人でね。ほんともう、何で俺は全然知らなかったんだと今でも後悔してるんだけど。
他にも読んでない著作があるので今後も読んでいこうと思う。
あと、何よりクラシックにももうちょっと詳しくなろう。
ちょいちょい、図書館でCDを借りて聴いている今日この頃である。(とか言ってるが、普段聴いてるのはブライアン・イーノの環境音楽がほとんどだったりする。『On Land』とか。いや、いいじゃん。環境音楽、というかブライアン・イーノ)
以上、蒼ノ下雷太郎でした。
した!